岐阜県を通る中山道

木曽路[馬籠]から美濃路[十六宿]

江戸日本橋から京都三条大橋まで六十九宿[百三十五里二十四町八間(約五百三十二キロ)]。この中山道の四分の一相当(約百二十八キロ)が美濃国、つまり岐阜県です。十六の宿場を持つ美濃中山道は山間を通る道程で、木々や渓谷に四季折々の自然の美しさがある街道です。中でも、当時の景観を比較的残しているのが、中津川宿〜太田宿間。  また平成十七年二月に岐阜県中津川市に編入となった木曽路馬籠宿は、景観を保存した観光地として賑わいをみせています。

中山道の歴史

中山道は、古代の官道である東山道を基盤として、京都から信濃を経由し上野、下野、武蔵などの東国を結ぶ重要な街道でした。慶長5年(1600)、関ケ原の合戦において天下をとった徳川家康が、天下統一を図る重要な手段として、戦乱で荒れ果てた全国の「道」の整備に取り掛かりました。翌年東海道に53の宿駅を設けて伝馬の制度を定め、「宿場」をつくりました。慶長7年(1602)、中山道は幕府によって日本橋を起点とした街道の一つとして整備が進められ、それ以降、日本橋を起点として、四方に幕府が重要とする道、奥州街道、日光街道、甲州街道が順次整備され、東海道と中山道を含めて「5街道」と言いました。幕府はこの5街道に道中奉行の大目付役を置いて幕府直轄の街道と定め、諸大名の参勤交代や行商人らの庶民の通行など人々が往来する幹線として利用されていきました。東海道は、大井川、天竜川、富士川、木曽川などの下流部や伊勢の七里の渡しや浜名湖の一里の渡しを通過するため、天候によって支障がおき、しばしば川止めや波が荒く遭難にあうことが多いが、中山道は厳しい山や谷が多いが予定通りの通行ができるということで、距離はやや長いが女性を含めた 多くの旅人の往来に好まれたといいます。
中山道の名称は、現在は「中山道」が使用されているが、当時は「中仙道」が使用されていました。亨保元年(1716)新井白石の意見を取り入れた幕府が、中仙道を中山道と名称を統一しました。
中山道は、5街道の中でも最も長く、69の宿場があります。善光寺参り、御嶽山のお宮参り、熱田さん参り、伊勢参りなど参拝のルートとしても栄え、同時に京から江戸へは公家の姫君が将軍に降嫁するルートとしても頻繁に利用されました。華やかな都から山奥を抜けて江戸に行く道すがらには姫君の痕跡も多く、別名“姫街道”とも呼ばれています。

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